引き返した特攻隊員 日記に「幸か不幸か」再出撃で戦死 80年間遺品受け継ぐ家族の思い

2025年08月17日 10:00更新

戦時中、大分県にあった宇佐海軍航空隊の基地からも多くの特攻隊員が飛び立ち、尊い命を落としました。当時の隊員の遺品を80年間大切に保管していた家族の思いを取材しました。

 

 

 

特攻隊員だった大石政則さん。現在の東京大学法学部2年生の学徒出陣で海軍へ入隊しました。

 

 

そして1944年、宇佐海軍航空隊に配属され翌年の4月、22歳の若さで沖縄の空に散りました。

 

 

太平洋戦争中、幾度にもわたる特攻出撃は多くの若者たちの命を奪いました。

 

 

◆政則さんのおい・浩隆さん(59)

 

「大石政則は私の伯父にあたる」

 

 

佐賀県で暮らす政則さんのおい・浩隆さんです。

 

 

戦後80年間、自宅で政則さんの遺品が大切に保管されてきました。

 

 

こちらは政則さんの日記。

 

 

ノート3冊にわたって海軍入隊から出撃直前までの心情が記されています。傷んで読みづらい箇所が多かったため、宇佐市で戦争資料を研究する豊の国宇佐市塾が解読を行ってきました。

 

 

 

 

◆豊の国宇佐市塾・藤原耕さん

 

「1人の故人の資料として出征してから特攻戦死するまで記録が綿密に残っているのは珍しい」

 

 

日記には特攻出撃前に書いたとされる遺言も。

 

 

政則さんは一度出撃しましたが、機体の不調で引き返しました。

 

 

そのため、日記には1回目の出撃から戻ってきた後に「父上 母上 幸か不幸か」と追記されていました。

 

 

◆政則さんのおい・浩隆さん(59)

 

「『幸か』というのは、ひょっとして戦争が終わったら家族の元に帰られるかもしれない、というような思いで書き出したと思う」

 

 

 

 

遺品は元々は政則さんの弟・政隆さんが長年管理してきたものでした。政隆さんは12年前、TOSの取材で兄への思いを語っていました。

 

 

◆政則さんの弟・政隆さん(当時80歳)

 

「兄は私を非常にかわいがってくれた。僕は本当に兄貴を尊敬していたし、僕も兄貴のようになりたいと思っていた」

 

 

しかし、政隆さんは5年前に他界、息子の浩隆さんがその遺志を受け継ぎました。

 

 

◆正則さんのおい・浩隆さん(59)

 

「父が亡くなった後にそういったもの(遺品)を自分自身で手に取って見ていくうちに本当に僕にはこういう家族がいたんだなと」

 

 

 

 

1回目の出撃からおよそ2週間後、戦地へと趣き日本のために命を捧げた政則さん。

 

 

浩隆さんは、いずれは遺品の一部を宇佐市に寄贈したいと考えています。

 

 

◆正則さんのおい・浩隆さん(59)

 

「宇佐市、大分県が特攻隊の発進 基地ではなく、平和の発信基地として、これからもあり続けていってもらいたい」

 

 

8月15日で戦後80年。

 

 

辛い戦争の記憶を風化させずに継承していこうと、各地で取り組みが行われています。

 

 

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